昭和四十四年一月十三日


X御理解第七十六節 「人間は人を助けることができるのいはありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。


 これは、このまま頂かねばならん御理解ですねえ。しかし、まあこれを少し、理屈っぽく頂いてみますと、ここに人は、病気災難の時、神に助けて貰うのであるからと、有りますが、病気災難の時だけ助けて貰う神様ではなくてね、もう、いつも助けられておると云うおかげを受ける事が、お道の信心だと思うのです。しかも特別この様なところまで、この様な事の中にでも、神様がこの様にして、お守り下さってある、お働き下さってあるんだと自分が助けてもらっておるという事を心のそこから実感さしてもらう。そこから、有難いものが生まれてくる。

 病気、災難の時だけ助けて貰う。なる程、それも有難いのですけれども、そういつもかつも病気してる訳じゃないですから。ですからもうひとつここに、常日頃の中に神様のおかげを、この様な、働きの中におかげを受けている事を、分からせて頂く事の為に、お互い信心させてもらわにゃいけんと思うのです。

 そこで、一番初めの人間は、人を助ける事が出来るのは有難い事ではないかとおっしゃる。それもです。人が水におぼれておるとか、難儀をしておる人に救いの手を差し伸べるとか、と云うもの、そういつも、そりゃあ世の中には、難儀がみち溢れておりますよ。けれども、そう一人一人には、かかわり合いがないでしょうが。

 ですから今日は、あそこへ難儀な人があるから、救おう助けようと云うのではなくてね。いつも自分の心の中にです。人を助けねばやまんと云う、そういう働きが起きておる。心の中に、そういう働きが躍動しておる。もちろん難儀な人があれば救いの手になっていく。

 けれどもです、そういう働きと云うか、内容が、段々出来ていくところに、これは、口をきかんでも、手は差しのべんでも、人が助かっていく。まあ云うなら、御本部参拝させて頂くと、金光様の御結界奉仕を下さってある姿を見ただけで、助かった様な気がするでしょうが。金光様の内容に人を助けねばやまんと云うものが、たぎっておる、躍動しておる。

 私共が、いつも、絶えず神様のお助けを頂いておるんだなあと、この様な中にでも神様の間違い無い、働きを受けておると云う事を実感させてもらうところから、自ずと神恩報謝の心が湧いてくる。そういう生活になりたい。

 同時に、そういう有難いなあ、勿体ないなあと云う心で、人を助ける働きをです、持たなければならないと思うのです。

 昨日、大阪の泉尾教会が出しておる機関紙の「いずみ」が、送ってきました。これを見てから、軽い驚きを感じた。同時に有難いと思うた。と云うのは、私の祈りの内容と、泉尾の先生の祈りの内容と云うものが、似通っておると云う事です。今年のスローガンが「若く、明るく、美しく。」だそうです。

 ここを見てから、私は感じましたんですねえ。例えば、「若く、明るく、美しく」と云う様な事に取り組んでいく働き、こういう働きが、心の中に躍動してくるならね、必ず人を助ける働きになってくるです。

 次に、「楽しい人生建設に、励みましょう。人皆幸福になりましょう。」と云う様にですね。これが、そのまま人を助ける事の働きになってくるのです。

 若く、明るく、美しく、何か合楽の昨年と今年を一緒にしたと云う感じですねえ。ここでは、より明るく、よりにこやかにと云う事でしたねえ。

 人が助かる事の場というものは、いつもこういうものが躍動しておる。ですから、私は思うのです。例えば、器量はいいけれども魅力のない人がありますねえ。器量はあんまりよくないけれども、なんとはなしに人をひきつけるものを持っている人がある。その魅力と云うものは、いったいどういう所から生まれてくるものであろうか。

 例えて言うなら、信心でもそうです。あちらの先生は、真面目で、きちょう面で、本当に取次者の鏡のような先生の時に、人が助からんと云うのは、どういう事だろうかと云うところがあるのです。かと云うと、私の様に、まあ外見ですよね。先生としての資格があれであるだろうかと、思われる位に、人間が、ろくそに出来ております。それでもやはり、おかげを受けておると云う事は、やはり、神様が私に魅力を感じておられるのであろうと思う。云うなら、私は、神様に好かれておるんだと思うのです。

 器量は、よいけれども、好かれていない人がある。器量は悪いけれども、好かれる人がある。神様でも、なかなかよい、信心が出来なさるのに、あっちはどうしてあげんおかげ頂ききりなさらんじゃろうかというのがある。

 ろくそな信心して、あれでよくおかげは頂かっしゃると云う人がある。そういう人達をですね。いろいろ検討してみますと、第一、無邪気な人が助かる。邪気が無い。こげなこつはお願い出来まいと云う様な事でも平気で、無邪気にお取次願う。

 丁度、赤ん坊は邪気がないから、誰からでも愛される様なものです。ですから、私共も無邪気であると云う事は魅力の第一ですね。

 次に、どういう事かと云うと、この「若く、明るく、美しい。」もう、年とったからと云うて、若々しさと云うものが、段々うすらいできますけれども、やはり、若くあろうと、いつも務めておる。同時に、いつも明るくあろうと務めておる。いつも美しくなろうと務めておる。

 それは、若くはなくても、明るくはなくても、美しくはなくても、美しかったっちゃ魅力のない人がある。美しくない者でも、美しくあろうと思う、明るくない人でも、本気で神様におすがりして明るくなろうと云う様な願いを、いつも心に持っておる人、そういう人が、私は、神様にすかれる様に思う。

 そんなら、ここの場合で云うと「よりにこやかにあらねばならん。」と務める。そういう務めるその心にです。私は、神様は魅せられなさるのじゃなかろうかと思う。

 今日も本気で明るくあろうと、心がけさせて頂くが、いつの間にか、心が暗くなっておる。そういう自分を発見する時です。こんなこつじゃいけん。明るくならしてもらわにゃと、明るい事をいろいろ考えて、それでも明るくならんなら、やはり御神前に出て御祈念でもさせてもらうと、云う様にです。明るくなる事につとめる。

 これは、私は、この事に取り組んでいって思わせて頂く事は、この事の難しさです。なかなか明るくなれない。なかなか、にこやかにしておれない。難しさが分かるけれどもその難しい事に取り組んで、これではいけん、これではいけないと云う風にです。いつも精進する人の姿にです。云うなら神様が目を向けて下さると云うか、神様が魅力を感じて下さると云う風に思うのです。

 ですから、いかにその事に取り組んでおらねばいけないかと云う事。素直に、教えを心に掛けて精進しておる人の姿に、私は、今日ここで人間は人を助ける事が出来るのは、有難いと云うておられるが、そういう私は、願いを待っておると云う事がです。周囲の人が助かる事じゃなかろうかと思うのです。

 そういう出来なくても、精進しておるところにです。今日ここを分かってもらいたいというところ、人間は病気災難の時、紙に助けて貰うとおっしゃるが、病気災難と時だけじゃあない。いつも常に助けられておる。いつも神様のこの様なお守りを受けておると実感しての、生活が出来る様なおかげを受ける為に、この様な心掛けにならねばと思います。

 人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ。そこに難儀な人があれば、その難儀な人に手をさしのべる事も有難い。けれども、私共の生き生きとした、明るく、美しく、若々しく、私共の生きた姿が、生活の姿が、その様であると云うところに、私を中心にする周囲が助かる。

 そこに人を助ける事の働きになっていく。しかし、いつも助けようと思わないでも、助ける働きが出来てくる。そういう働きの上に、病気災難の時だけ助けてもらう神様ではなくて、常日頃に、この様な、おかげを下さる事が出来る神様をはっきりそこに見る事が出来る。

 今日、私は、この七十六節の御理解を何回も読まして頂いて、これは、そのままを私共が頂かねばならん事。

 けれども、只それを理屈っぽく申しましたですねえ。人を助けると云う事は必ず自分の手を差しのべねば助けられぬと云うものではない。そんな人は、どこにも、ここにも、ある訳じゃない。

 病気災難の時だけじゃない。いつも助けてもらわねばならんのである。しかも、いつも助けられておるという実感を、持ちならが生活していく、その生活こそは、本当は、お道の信心の在り方である。それには、いよいよ今年のスローガンでありますところの「より明るく、よりにこやかに」と云う事に取り組めば確かに難しい。難しいからやめるのではなくて、出来なくても、それに取り組んでおる姿こそが、私共、信心させて頂く者の生き姿でなからねばならない、と云う事ですね。どうぞ。